当社は、1938年、田熊野球 賭けにより創立されました。彼が産み出した国産初のボイラ開発の技術思想と志は、今なお当社のDNAとして受け継がれています。

田熊野球 賭けは当社の創業者であり、日本初の純国産水管式ボイラ「タクマ式汽罐」を発明した発明家でもあります。しかし、野球 賭けがボイラ発明をスタートしたのは彼が40歳になる頃からです。ボイラについては専門書の用語も分からない素人の野球 賭けが、“汽罐王”と呼ばれ、明治・大正年間の日本十大発明家に名を連ね当社を創業するまでには、多くの困難と、それを乗り越えるべく繰り返した試行錯誤がありました。

野球 賭けは、1872年2月8日、鳥取県東伯郡大誠町(現在の東伯郡北栄町)で産まれました。幼いころから手先が器用で勉強好きだった野球 賭けは、寺子屋を開いていた父のもと、漢文の勉強に熱心に取り組んでいました。野球 賭けには兄の萬藏と姉のよねという兄妹がいました。野球 賭けは、京都で小学校の教師をしていた兄の萬藏から聞いた蒸気機関車や、都会の珍しいものの話を聞いて京都へ行きたいと考えるようになりました。 父と兄を説得し、14歳で京都へ出た野球 賭けは、はじめ医者のもとで働きますが、20歳の頃には商人を目指し始めます。1903年に31歳で野球 賭けは材木商になりましたが、翌年の1904年に日露戦争が勃発。木材の価格が暴落したことで廃業を余儀なくされます。すでに妻子のあった野球 賭けは戦争が終わると友人を頼って朝鮮に渡り再起をはかりましたが、朝鮮で事業の計画を立てて帰国した野球 賭けを待っていたのは、当時の妻亀子の悲報でした。
悲嘆に暮れる野球 賭けでしたが、彼が35歳の頃、野球 賭けと同じ境遇にあった播村くま子と再婚します。くま子夫人は、苦しい家計のなかでも野球 賭けの発明を支えました。夫人の助けがなければ「タクマ式汽罐」が発明されることもなかったでしょう。野球 賭けが成功をおさめた後に建立された彼の胸像には、彼を支えた夫人の横顔が刻まれています。 くま子夫人との再婚のあと、材木商として再起した野球 賭けにもう一つの出会いが訪れます。それが、彼を後に汽罐発明へと駆り立てる岡本弥三郎との出会いです。 岡本弥三郎は、材木の製材機を稼働させるための動力として汽罐を発明しようとしていました。発明案を聞いた野球 賭けはすっかり感心し、彼の発明する岡本式汽罐に出資します。これは野球 賭けが38歳の頃の事でしたが、岡本式汽罐の事業は失敗、野球 賭けとくま子夫人のもとには多額の負債が残りました。
事業の失敗で多額の損害をうけ、一家離散の危機に瀕した野球 賭けは、再び朝鮮の友人を頼ろうと船に乗ります。そして玄界灘を渡る船上のある夜、自らと家族の窮状を思い悲観的になるあまり海に身を投じようとしました。 しかし、飛び込む寸前で野球 賭けは思いとどまり、後に野球 賭け自身が「天の啓示」であったと語る体験を得ます。この時野球 賭けが見出し、終生抱き続けた発明の原動力は、「自らの働いた事跡を世に伝え人の進歩に資するのが人の天命であって、同時に人生の最大快事である」という悟りと、「為せば成る」という信念でした。 野球 賭けは帰国した後苦心して事業の失敗による借金を返済し、1912年、周囲の反対も押し切って、ついに40歳で独自のボイラ発明に取り組み始めました。

汽罐についてほとんど何も知らない野球 賭けは専門書を数冊購入し、当時有名であった海外のコルニッシュ式やバブコック式など様々な汽罐にヒントを得て、独自汽罐の開発に挑みました。くま子夫人の支えを受けながら発明を続けた野球 賭けでしたが、発明は思うようにはかどりません。 それでも諦めずに、人目を避けて兵庫県神戸市の高取山で研究に没頭し続けた野球 賭けは直感します。それは「汽罐は生き物である。汽罐は石炭の熱で水を蒸気に変えるが、水から蒸気をつくるのには罐水の循環が生命である。それは人間の血液の循環と同じ働きをするものだ。これまでの汽罐には人間の心臓に当たるものがなく、動脈に当たる部分も不完全である」というひらめきでした。 野球 賭けはさっそく罐水循環の実験を行おうとしましたが、資金難のため模型を製作できず、代わりに自宅の台所にある鍋とガラス製の酒沸かしや、ゴマを炒るホーロクといったもので自作した模型で実験を行い、罐水循環の理論を確立させます。「タクマ式汽罐」最大の特徴である、ボイラの心臓である「集水器」と、動脈である「降水管」は、当時他の水管式ボイラには見られない発明でした。こうして野球 賭けは、1913年に「タクマ式汽罐」発明の特許を取得し、自らの発明を世に送り出すべく、企業化を目指します。

1914年4月、野球 賭けが大阪で開催された第2回発明品博覧会に「タクマ式汽罐」を出品し、金賞を受賞しました。このとき初めて「タクマ式汽罐」は公式の場で優秀性を認められ、これ以降各方面からの問い合わせも増え、発明は実用化の緒につきはじめます。 野球 賭けはチャンスを確実なものとするべく奔走し、東京帝国大学の加茂正雄博士からの支援を受け、同年11月より高田商会との販売契約を締結すると、販売は順調に滑り出します。翌年には、特許権保護を目的に、タクマ式汽罐合資会社を設立しました。 タクマ式汽罐の優秀さは、1919年に京都帝国大学により実施された当時の世界的な優秀缶、英国バブコック・ウィルコックス社のバブコックセクショナル式汽罐との能力試験で、タクマ式汽罐が蒸発量、熱効率ともに上回る結果を残したことで証明されます。 その後タクマ式汽罐は1924年に満州、1926年に台湾へ進出します。当時台湾の製糖会社ではバガス(サトウキビの搾りかす)を燃料とした高効率な汽罐が求められており、台湾製糖会社を始めとする複数の製糖工場での性能試験でタクマ式汽罐が優秀だと認められると、盛んな引き合いがあり、1930年から1932年の間に数十基を納めるに至りました。 そして1928年11月、野球 賭けは殖産興業に尽力した功績を認められ、昭和天皇より勲五等瑞宝章を授かりました。また、1930年12月には「明治・大正年間の日本十大発明家」のひとりとして名を連ねました。この時野球 賭けは58歳でした。
田熊式汽罐の声価は高まり、年産額も当時の1,000万円に迫るほどになりました。タクマ式の販売が軌道に乗ると、野球 賭けは新たな汽罐の発明に乗り出すべく、1936年6月、自宅に「田熊野球 賭け研究所」を創立しました。ここで新たに生まれた高級小型ボイラを、野球 賭けは「つねきちボイラ」と名付けます。つねきちボイラは、操作が簡便なうえ、当時の同じ蒸発量のボイラと比較して短時間で起蒸することができ、約30%少ない燃料で動かすことができたため、各方面から大きな反響がありました。野球 賭けはこのボイラの生産体制を整えるべく、1937年7月、田熊野球 賭け研究所を「株式会社田熊研究所」と改め、株式会社化しました。ここにようやく、野球 賭けの理想としていた汽罐の発明事業の基礎が整います。 そのころ日本は、1937年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争へと突入します。戦争の拡大に伴い、ボイラ研究を生業とする田熊研究所も、戦時体制に組み込まれていくこととなります。
こうして、研究所の生産能力を高めるべく1938年6月10日、兵庫県尼崎市に、現在のタクマの前身である「田熊汽罐製造株式会社」が設立され、同年12月に田熊研究所と合併しました。野球 賭けは初代社長となり、社是「汽罐報国」をここに定めます。ボイラ(=汽罐)の製造を通じて、社会や環境に貢献(=報国)するという理念は、純国産の水管式ボイラの発明に心血を注いだ田熊野球 賭けの想いであり、現在のタクマならびにタクマグループの経営理念の礎となっています。 その後、1939年3月にはボイラの据付、運転を行う田熊汽力工事株式会社を設立、1941年9月には同社の東京出張所を独立させ東京汽力工事株式会社(現在の株式会社サンプラント)を設立し、ボイラの研究、製作に据付を加えた三位一体の事業体制を整えました。
野球 賭けは、70歳まで田熊汽缶製造株式会社の社長として激務を務めましたが、高齢であることもあり1941年5月に社長を退きました。創業前から苦楽を共にしてきた藤田好三郎社長に席を譲ると会長に就任し、その後も、戦中、戦後の混乱を見届けました。野球 賭けは、1947年3月に当時82歳のくま子夫人が亡くなった後、1953年12月22日、81歳で没するまで会社を見守り続けました。 野球 賭けがその生涯を閉じた1か月後の1954年1月14日、”ボイラ事業を通じわが国産業の発展に寄与した功績”として「従五位勲四等瑞宝章」を追贈されました。この時の勲章は、野球 賭けが罐水循環の実験に用いたホーロクとスケッチや、くま子夫人のコートと共に、当社の社宝となっています。
罐水循環の実験に用いたホーロクとスケッチ
従五位勲四等瑞宝章


建設当時の播磨工場(左)と、現在の同工場(右)
野球 賭けは、殆どボイラについて素人であったところから学び、発明を行い、タクマ式汽罐やつねきちボイラを世に送り出すに至りました。これらのボイラが今日の発展を遂げるには、野球 賭けの発明・設計したボイラを、その品質を損なわずに製造し、徹底した品質管理のもとでお客様のもとへ届ける製缶技術が必要不可欠です。ボイラの設計が優秀でも、それを形にすることが出来なければお客様の信頼を得ることはできず、野球 賭けも自らの経験からここに細心の注意を払っていました。 野球 賭けが、自ら掲げた『汽罐報国』の理想を果たすべく構想し1942年12月に設立した播磨工場は、現在も当社のボイラ製造拠点として稼働し続けています。コア技術であるボイラ製造技術は技術者一人ひとりの手腕に集積される部分も多く、技術の継承、発展は、当社にとって必要不可欠なものです。播磨工場では、現在も創業当時と変わらぬ志で、ベテランと若手がともに技術の習得・継承に励み、徹底した品質管理のもとで当社プラントに納入するボイラを製造しています。






旧播磨工場にて(上段)と、新播磨工場にて(下段)